原文来自日本刀剑保存协会---刀剑博物馆。
原文:
日本刀は大陆よりもたらされて以降、数々の戦闘を経て改良されてきました。また、その时代の様相を反映し、さまざまな様式が生まれました。ここでは、日本刀の各时代における特徴を说明します。
1. 上古刀
2. 平安后期~镰仓初期
3. 镰仓中期
4. 镰仓后期
5. 南北朝时代
6. 室町前期
7. 室町后期
8. 安土・桃山时代
9. 江戸时代(中期)
10. 江戸时代(元禄期)
11. 幕末期
12. 明治以后
原文:
1. 上古刀
上古刀(じょうことう)は反りのない直刀で、平造(ひらづくり)と切刃造(きりはづくり)がほとんどです。日本刀が直刀から湾刀(わんとう)へ移行したのは平安中期以降と考えられ、一般的に10世纪前半の平将门と藤原纯友の乱(承平・天庆の乱)以降とみられています。それ以前のものは上古刀と呼ばれ、大陆より日本にもたらされた大陆様式の直刀です。この时代の刀剣の资料としては、古坟から発掘されるものと、奈良时代の正仓院御物の刀剣类があります。
2. 平安后期~镰仓初期
平安时代后期から、いま私たちが普通に见る太刀、すなわち反りのある镐造(しのぎづくり)のものがあらわれました。元幅(もとはば)が広く先幅(さきはば)が狭く、腰反(こしぞ)り・踏张(ふんば)りが强いものです。太刀は総じて细身で、茎(なかご)から腰元のあたりで强く反り、元幅に比べて先幅が著しく狭くなり、先端部が小锋(こきっさき=锋が小さめなこと)になります。これが、腰反りと呼ばれるものです。中程から先にいくと、栋(むね)から押さえられたような感じで反りが伏せられています。
これを「うつむく」と称しています。
刃长は2尺5、6寸(75.8~78.8cm)位のものが多くなっています。
3. 镰仓中期
武士全盛の镰仓时代には、重ねが厚く平肉(ひらにく)も豊かに、身幅(みはば)も広く、いかにも豪壮な太刀姿となります。元と先の身幅の差が少なく(先にいっても细くならず)反りは腰反りですが、中程から先に行ってもある程度反りが加わり、锋は中锋(なかきっさき)が诘まって猪首风(いくびふう)となります。刃文(はもん)は华丽な丁子乱(ちょうじみだれ)が流行しました。また、短刀の制作もわずかに现れます。
4. 镰仓后期
镰仓时代末期に太刀は、さらに豪壮雄大なものとなり、身幅が広く、元幅と先幅の差の少ない、锋の延びたものとなります。镰仓中期とほぼ同様に锋が少し延びたものと、反面やや细身で、平安末ないし镰仓初期のものと见粉う姿形もありますが、先にいっても伏しごころはなく、逆に反りが加わっています。
刃文は互(ぐ)の目あるいは湾(のた)れと称するものが出始めます。相模国の五郎入道正宗が沸出来(にえでき)の作风を完成したと言われています。
5. 南北朝时代
南北朝时代には刃长3尺(90.9cm)に余る长大な太刀が作られ、短刀も大振な姿态のものとなってきます。
太刀は豪壮で、身幅広く长寸であり、中には3尺を越す背负い太刀・野太刀(のだち)と呼ばれる物々しい大太刀もありますが、いずれも重さを軽减すべく重ねを薄く造り込んでいます。また棒樋(ぼうひ)を掻(か)いたもの(=刀身に沿ってみぞを雕ったもの)が多くなっています。この时代の太刀は、后の时代(主に天正や庆长年间)に大磨上(おおすりあげ=茎から短く诘めること)となって、无铭の打刀(うちがたな)に仕立てかえられたものが多くあります。
6. 室町前期
室町时代前期には镰仓初期の様式にならった作风を示しています。 前时代の大锋(おおきっさき=锋が大きめなこと)の长大なものは姿を消し、刃长は2尺4、5寸でやや身幅を狭く、反りが高く、中锋(ちゅうきっさき=大锋と小锋の间くらい)で、一见镰仓时代のものと见纷いますが、わずかに先反りがつくのが特色です。
7. 室町后期
室町时代后期になると、戦闘様式は一骑駈(が)けから徒歩の集団戦に移り、刃を上にして腰帯に指す打刀が多くなります。応仁・文明の乱以后、各地に戦乱が起こり、数打物(かずうちもの=既制品)が出まわりました。特に注文によって念入りに锻えたものを注文打(ちゅうもんうち)と呼んで区别しています。备前(冈山県)と美浓(岐阜県)が二大生产地です。
刀は寸法がつまり、多くは2尺1寸(63.6cm)前后です。身幅は普通かやや広めで、中锋・中锋延(のび)ごころのものが多く、先身幅は狭くならずに、先反りが强くつきます。茎は片手打ちに适すように短く作られています。
8. 安土・桃山时代
刀剣史上、庆长(1596~1614)时代以前のものを古刀と呼び、以后のものを新刀(新刃〔あらみ〕・新身〔あらみ〕)と呼びます。安土・桃山时代になると刀锻冶は京、江戸を始め、新势力の诸大名の城下町を中心として集まり、また交通の発达は鉄资材の交流を促し、外国制の鉄すなわち南蛮鉄も使用されるようになりました。
刀の姿は南北朝时代の太刀を大磨上にした体配(=茎以外の刀身の姿)に非常によく似ています。広い身幅で、元幅と先幅に开きが少なく、中锋が延びるものや大锋もあり、重ねは厚くなります。刃长は2尺4寸、5寸(72.7cm~75.8cm)前后のものが多くなっています。
9. 江戸时代(中期)
江戸时代の中期の刀剣の姿形は普通の身幅で、元幅に比べて先身幅が狭まり、反りが目立って浅く、锋も小さく中锋のつまりごころの形状です。刃长は2尺3寸(69.7cm)前后のものが多くなっています。この独特の体配はとくに寛文・延宝年间を中心とした顷に多く作られていることから、これを寛文新刀と呼んでいます。
10. 江戸时代(元禄期)
贞享・元禄を中心とした顷、つまり寛文新刀から新々刀(しんしんとう)へ移行する过渡期の姿です。天下泰平となり、刃文にも斩新(ざんしん)华丽なものが现れました。寛文新刀よりは、反りがやや深くなっています。
11. 幕末期
文化・文政以后のものを新々刀または复古新刀と呼んでいます。水心子正秀(羽前山形→江戸)や南海太郎朝尊(土佐)は复古刀を唱え、水心子の门には大庆直胤がいます。源清麿(信州→江戸)も相州物・美浓志津の作风の复古を志し、その技量は高く评価されました。
身幅は広く、元幅と先幅のひらきが少なく、长寸(2尺5、6寸)で反りの浅い大锋の造り込みとなり、重ねは厚くなります。
12. 明治以后
明治9年の廃刀令から现在までの刀剣を现代刀と呼んでいます。廃刀令が出ると刀工は职を失いましたが、明治39(1906)年に至って月山贞一、宫本包则が帝室技芸员に任命され、锻刀の技术は保护されました。明治・大正・昭和・平成と、锻錬技法は今日まで続いています。
现代刀においては、古刀・新刀を问わず、あらゆる时代の著名刀工の作风を模写しており、特に镰仓时代の太刀を写したものが多く作られています。
原文:
日本刀は大陆よりもたらされて以降、数々の戦闘を経て改良されてきました。また、その时代の様相を反映し、さまざまな様式が生まれました。ここでは、日本刀の各时代における特徴を说明します。
1. 上古刀
2. 平安后期~镰仓初期
3. 镰仓中期
4. 镰仓后期
5. 南北朝时代
6. 室町前期
7. 室町后期
8. 安土・桃山时代
9. 江戸时代(中期)
10. 江戸时代(元禄期)
11. 幕末期
12. 明治以后
原文:
1. 上古刀
上古刀(じょうことう)は反りのない直刀で、平造(ひらづくり)と切刃造(きりはづくり)がほとんどです。日本刀が直刀から湾刀(わんとう)へ移行したのは平安中期以降と考えられ、一般的に10世纪前半の平将门と藤原纯友の乱(承平・天庆の乱)以降とみられています。それ以前のものは上古刀と呼ばれ、大陆より日本にもたらされた大陆様式の直刀です。この时代の刀剣の资料としては、古坟から発掘されるものと、奈良时代の正仓院御物の刀剣类があります。
2. 平安后期~镰仓初期
平安时代后期から、いま私たちが普通に见る太刀、すなわち反りのある镐造(しのぎづくり)のものがあらわれました。元幅(もとはば)が広く先幅(さきはば)が狭く、腰反(こしぞ)り・踏张(ふんば)りが强いものです。太刀は総じて细身で、茎(なかご)から腰元のあたりで强く反り、元幅に比べて先幅が著しく狭くなり、先端部が小锋(こきっさき=锋が小さめなこと)になります。これが、腰反りと呼ばれるものです。中程から先にいくと、栋(むね)から押さえられたような感じで反りが伏せられています。
これを「うつむく」と称しています。
刃长は2尺5、6寸(75.8~78.8cm)位のものが多くなっています。
3. 镰仓中期
武士全盛の镰仓时代には、重ねが厚く平肉(ひらにく)も豊かに、身幅(みはば)も広く、いかにも豪壮な太刀姿となります。元と先の身幅の差が少なく(先にいっても细くならず)反りは腰反りですが、中程から先に行ってもある程度反りが加わり、锋は中锋(なかきっさき)が诘まって猪首风(いくびふう)となります。刃文(はもん)は华丽な丁子乱(ちょうじみだれ)が流行しました。また、短刀の制作もわずかに现れます。
4. 镰仓后期
镰仓时代末期に太刀は、さらに豪壮雄大なものとなり、身幅が広く、元幅と先幅の差の少ない、锋の延びたものとなります。镰仓中期とほぼ同様に锋が少し延びたものと、反面やや细身で、平安末ないし镰仓初期のものと见粉う姿形もありますが、先にいっても伏しごころはなく、逆に反りが加わっています。
刃文は互(ぐ)の目あるいは湾(のた)れと称するものが出始めます。相模国の五郎入道正宗が沸出来(にえでき)の作风を完成したと言われています。
5. 南北朝时代
南北朝时代には刃长3尺(90.9cm)に余る长大な太刀が作られ、短刀も大振な姿态のものとなってきます。
太刀は豪壮で、身幅広く长寸であり、中には3尺を越す背负い太刀・野太刀(のだち)と呼ばれる物々しい大太刀もありますが、いずれも重さを軽减すべく重ねを薄く造り込んでいます。また棒樋(ぼうひ)を掻(か)いたもの(=刀身に沿ってみぞを雕ったもの)が多くなっています。この时代の太刀は、后の时代(主に天正や庆长年间)に大磨上(おおすりあげ=茎から短く诘めること)となって、无铭の打刀(うちがたな)に仕立てかえられたものが多くあります。
6. 室町前期
室町时代前期には镰仓初期の様式にならった作风を示しています。 前时代の大锋(おおきっさき=锋が大きめなこと)の长大なものは姿を消し、刃长は2尺4、5寸でやや身幅を狭く、反りが高く、中锋(ちゅうきっさき=大锋と小锋の间くらい)で、一见镰仓时代のものと见纷いますが、わずかに先反りがつくのが特色です。
7. 室町后期
室町时代后期になると、戦闘様式は一骑駈(が)けから徒歩の集団戦に移り、刃を上にして腰帯に指す打刀が多くなります。応仁・文明の乱以后、各地に戦乱が起こり、数打物(かずうちもの=既制品)が出まわりました。特に注文によって念入りに锻えたものを注文打(ちゅうもんうち)と呼んで区别しています。备前(冈山県)と美浓(岐阜県)が二大生产地です。
刀は寸法がつまり、多くは2尺1寸(63.6cm)前后です。身幅は普通かやや広めで、中锋・中锋延(のび)ごころのものが多く、先身幅は狭くならずに、先反りが强くつきます。茎は片手打ちに适すように短く作られています。
8. 安土・桃山时代
刀剣史上、庆长(1596~1614)时代以前のものを古刀と呼び、以后のものを新刀(新刃〔あらみ〕・新身〔あらみ〕)と呼びます。安土・桃山时代になると刀锻冶は京、江戸を始め、新势力の诸大名の城下町を中心として集まり、また交通の発达は鉄资材の交流を促し、外国制の鉄すなわち南蛮鉄も使用されるようになりました。
刀の姿は南北朝时代の太刀を大磨上にした体配(=茎以外の刀身の姿)に非常によく似ています。広い身幅で、元幅と先幅に开きが少なく、中锋が延びるものや大锋もあり、重ねは厚くなります。刃长は2尺4寸、5寸(72.7cm~75.8cm)前后のものが多くなっています。
9. 江戸时代(中期)
江戸时代の中期の刀剣の姿形は普通の身幅で、元幅に比べて先身幅が狭まり、反りが目立って浅く、锋も小さく中锋のつまりごころの形状です。刃长は2尺3寸(69.7cm)前后のものが多くなっています。この独特の体配はとくに寛文・延宝年间を中心とした顷に多く作られていることから、これを寛文新刀と呼んでいます。
10. 江戸时代(元禄期)
贞享・元禄を中心とした顷、つまり寛文新刀から新々刀(しんしんとう)へ移行する过渡期の姿です。天下泰平となり、刃文にも斩新(ざんしん)华丽なものが现れました。寛文新刀よりは、反りがやや深くなっています。
11. 幕末期
文化・文政以后のものを新々刀または复古新刀と呼んでいます。水心子正秀(羽前山形→江戸)や南海太郎朝尊(土佐)は复古刀を唱え、水心子の门には大庆直胤がいます。源清麿(信州→江戸)も相州物・美浓志津の作风の复古を志し、その技量は高く评価されました。
身幅は広く、元幅と先幅のひらきが少なく、长寸(2尺5、6寸)で反りの浅い大锋の造り込みとなり、重ねは厚くなります。
12. 明治以后
明治9年の廃刀令から现在までの刀剣を现代刀と呼んでいます。廃刀令が出ると刀工は职を失いましたが、明治39(1906)年に至って月山贞一、宫本包则が帝室技芸员に任命され、锻刀の技术は保护されました。明治・大正・昭和・平成と、锻錬技法は今日まで続いています。
现代刀においては、古刀・新刀を问わず、あらゆる时代の著名刀工の作风を模写しており、特に镰仓时代の太刀を写したものが多く作られています。