テーマ:歴史・日本史
パークス襲撃犯の林田衛太郎貞堅が使った刀と林田貞堅を討ち取った中井弘の刀が同時に公開されるという。
林田貞堅は、「朱雀 操(すざく みさお)」の名で知られる。
慶応4年(1868年)2月30日、イギリス公使ハリー・パークスが明治天皇に謁見するため宿所の知恩院から御所に向う途上、朱雀は同志三枝蓊と2人でパークス一行に斬り込んだ。
朱雀らはイギリス兵9人に負傷を負わせるが、一行の警備は厳重であり、朱雀はパークスに同行していた護衛の薩摩藩出身の中井弘と斬り合いになり、中井に胸部を刺され、駆けつけた土佐藩参政後藤象二郎に斬られて倒れたところを中井に首を刎ねられ、三枝も重傷を負ったところを警備兵に捕縛され襲撃は失敗に終わる。
朱雀の首は、後日斬首された三枝の首と共に粟田口刑場に3日間晒され、その首の写真が残されているがここでは載せられない。
以下産経ニュースより転載
大政奉還から4カ月後の慶応4年2月、駐日英国公使のハリー・パークス(1828~85年)が京都御所に向かう最中に2人の攘夷志士に襲われた事件で使用された刀が確認され5日、京都国立博物館(京都市東山区)が公開した。
10月から同館で始まる特別展「没後150年 坂本龍馬」で一般公開される。
確認されたのはパークスを襲撃した京都出身の攘夷志士、林田貞堅(さだかた)の刀(刃長74・3センチ)で、応戦し林田の攻撃を防いだ元薩摩藩士の中井弘(ひろむ)が使用していた刀とともに公開。
約150年ぶりにまみえた両刀には、激しい斬り合いを物語る多数の刃こぼれがある。
特別展の調査をしていた同博物館の職員が今年7月、多くの攘夷志士が眠る霊明神社(同区)で、林田の刀を確認。
明治21年に親類から神社に奉納されていたという。
一方、中井の刀は、娘婿にあたる元首相、原敬が36年に同博物館に寄贈していた。
襲撃事件は慶応4年2月に発生。京都御所に向かっていたパークスの一行を、攘夷を訴える林田らが襲撃。
パークスにけがはなかったが、護衛の中井が応戦し、首を討ち取ったとされる。
同館の担当者は「打ち合いをした刀同士が残るのは非常に珍しい。約150年前の激動の時代を象徴するような刀から、2人が命をかけて戦った証しを感じてもらえれば」と話している。
(産経ニュース)
林田貞堅を討ち取った中井弘は逸話が多い。
薩摩藩士で明治政府では、外交官、政治家となり第3代 滋賀県令・県知事、第5代 京都府知事を歴任した一方、明治の怪傑、奇人、滑稽家として知られた。
イギリス公使・パークス襲撃事件では、パークス一行の護衛として襲撃犯の一人・朱雀操と斬り合い、自身も頭部に傷を負いながらも朱雀の胸部を刺し、後から駆けつけた後藤に朱雀が斬られて倒れたところを首を刎ねた。
パークスらを救った功績により、後藤と共にイギリス・ビクトリア女王から宝刀を贈られた。
この一件により、尊王攘夷派から「同志を斬り外国人を守る国賊」として暗殺されるおそれが出たため、尊王家・高山彦九郎を弔う詩を書きつけた名入りの扇数百本を京都寺町の扇屋に注文し、わざと代価を支払わず、扇屋が叩き売るのを待ってそれを市中に流通させ、中井に尊王の意ありと広く知らしめることで難を逃れた。
記事に出て来る原敬とは、中井の娘である貞子は、原敬の最初の妻である。
そのため原は中井と気が合ったらしい。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際、碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった人物でもある。
パークス襲撃犯の林田衛太郎貞堅が使った刀と林田貞堅を討ち取った中井弘の刀が同時に公開されるという。
林田貞堅は、「朱雀 操(すざく みさお)」の名で知られる。
慶応4年(1868年)2月30日、イギリス公使ハリー・パークスが明治天皇に謁見するため宿所の知恩院から御所に向う途上、朱雀は同志三枝蓊と2人でパークス一行に斬り込んだ。
朱雀らはイギリス兵9人に負傷を負わせるが、一行の警備は厳重であり、朱雀はパークスに同行していた護衛の薩摩藩出身の中井弘と斬り合いになり、中井に胸部を刺され、駆けつけた土佐藩参政後藤象二郎に斬られて倒れたところを中井に首を刎ねられ、三枝も重傷を負ったところを警備兵に捕縛され襲撃は失敗に終わる。
朱雀の首は、後日斬首された三枝の首と共に粟田口刑場に3日間晒され、その首の写真が残されているがここでは載せられない。
以下産経ニュースより転載
大政奉還から4カ月後の慶応4年2月、駐日英国公使のハリー・パークス(1828~85年)が京都御所に向かう最中に2人の攘夷志士に襲われた事件で使用された刀が確認され5日、京都国立博物館(京都市東山区)が公開した。
10月から同館で始まる特別展「没後150年 坂本龍馬」で一般公開される。
確認されたのはパークスを襲撃した京都出身の攘夷志士、林田貞堅(さだかた)の刀(刃長74・3センチ)で、応戦し林田の攻撃を防いだ元薩摩藩士の中井弘(ひろむ)が使用していた刀とともに公開。
約150年ぶりにまみえた両刀には、激しい斬り合いを物語る多数の刃こぼれがある。
特別展の調査をしていた同博物館の職員が今年7月、多くの攘夷志士が眠る霊明神社(同区)で、林田の刀を確認。
明治21年に親類から神社に奉納されていたという。
一方、中井の刀は、娘婿にあたる元首相、原敬が36年に同博物館に寄贈していた。
襲撃事件は慶応4年2月に発生。京都御所に向かっていたパークスの一行を、攘夷を訴える林田らが襲撃。
パークスにけがはなかったが、護衛の中井が応戦し、首を討ち取ったとされる。
同館の担当者は「打ち合いをした刀同士が残るのは非常に珍しい。約150年前の激動の時代を象徴するような刀から、2人が命をかけて戦った証しを感じてもらえれば」と話している。
(産経ニュース)
林田貞堅を討ち取った中井弘は逸話が多い。
薩摩藩士で明治政府では、外交官、政治家となり第3代 滋賀県令・県知事、第5代 京都府知事を歴任した一方、明治の怪傑、奇人、滑稽家として知られた。
イギリス公使・パークス襲撃事件では、パークス一行の護衛として襲撃犯の一人・朱雀操と斬り合い、自身も頭部に傷を負いながらも朱雀の胸部を刺し、後から駆けつけた後藤に朱雀が斬られて倒れたところを首を刎ねた。
パークスらを救った功績により、後藤と共にイギリス・ビクトリア女王から宝刀を贈られた。
この一件により、尊王攘夷派から「同志を斬り外国人を守る国賊」として暗殺されるおそれが出たため、尊王家・高山彦九郎を弔う詩を書きつけた名入りの扇数百本を京都寺町の扇屋に注文し、わざと代価を支払わず、扇屋が叩き売るのを待ってそれを市中に流通させ、中井に尊王の意ありと広く知らしめることで難を逃れた。
記事に出て来る原敬とは、中井の娘である貞子は、原敬の最初の妻である。
そのため原は中井と気が合ったらしい。
岩倉具視と大久保利通が囲碁をやっていた際、碁盤を転覆させたり、樺山資紀を公衆の面前で大声で叱責したり、宴席にて明治天皇の御前で西村茂樹をビール瓶で殴打するなど、奇行が多かった人物でもある。