『魔法士なんて危ないんだから近づいちゃだめよ』
母親はそう言った。周りの大人たちも皆そう言う。
同じ人間じゃないの? と聞いても「そう見えても違うのだ、彼らは神に反する穢らわしい生き物だ」と返って来る。
けがらわしいってよく分からない……少女はいつも首を傾げる。
でも皆が喜ばないと知っていたから、隠れてその小屋に行っていた。
山の中にある小さな小屋には素敵な魔法使いが住んでいる。
花を出してくれたり、傷を治してくれたり―――― 迷子になっていた自分にお菓子をくれて町の近くまで連れて行ってくれた。
彼はとっても優しいのよ! と皆に自慢したい。でも少女は口をつぐむ。これは自分と彼だけの秘密なのだ。
少女は今日も山の中を彼の小屋に向かって走る。手にいっぱいの木の実を抱えて。
もうすぐ小屋が見えてくるというところで、向こうから彼が走ってくるのが見えた。
彼は少女の姿を見るなり、駆け寄って彼女を抱きしめる。
「ああ! よかった、ルリ。心配したんだよ。間に合わないかと思った!」
どうしたの? と少女は聞く。
少し様子がおかしい気がする。
とても顔が青いし、慌てているわ、なぜ?
「何でもないよ。さぁ小屋にお入り」
今日はもう戻らないといけないの。お母さんの誕生日なのよ。
「駄目だ! 町に戻ってはいけない!」
どうして?
彼は答えない。
「……ここにしばらく隠れて、それから他の国に行くんだ。出来るだけ遠くに……ファルサスにでも」
どうして? お母さんもお父さんもいるのに。
少女は急に不安になった。
彼の手を振り解いて、来た道を走り出す。
「駄目だルリ! 行ってはいけない!」
彼が追いかけてくる。それでも少女は走る。
走って走って、町が見下ろせる場所まで来た時―――― 彼女が見たものは炎に包まれる自分の町だった。
「出来はどうだ?」
開いている扉を叩きながら、正装した男が入ってくる。魔女はその言葉に顔をあげた。
もう二時間も髪や化粧のために拘束されているのだ。いい加減解放されたいが、シルヴィアや女官たちは実に楽しそうで離してくれない。
「オスカー……」
心底疲れた、という呟きを、しかし彼女の契約者は耳に入っているのかいないのか、ただ彼女を見て絶句している。
「これはまた……迫力があるな」
「何ですかそれ……」
「渾身の作ですよ! 元が綺麗だから化粧のし甲斐があります」
弾むような声でシルヴィアが答える。その言葉に終わったと判断して、ティナーシャは立ち上がった。
長い髪は一部を垂らして結い上げられ、ドレスと同じ黒い花飾りがつけられている。
花の周りを囲むレースはそのまま彼女のむき出しになった白い肩にかかっていた。
高く通った鼻梁と大きな闇色の目を引き立てるように薄い青を基調に化粧が施され、普段清冽な印象を受ける美貌は、女王のように誇りと威圧感を伴った美しさへと引き立てられていた。彼女が憮然とした表情をしているのも相まって、実に近づきがたいものがある。
オスカーは機嫌よく彼女の頬に触れようと手を伸ばした。だがその時、廊下で彼を捜す声がする。
「殿下!」
「何だ」
返事に気づいてラザルが部屋に入ってきた。彼はティナーシャに気づき、やはり絶句する。
魔女に見惚れている従者にオスカーは振り向かぬまま声をかけた。
「用は何だ」
「あ、はい。タァイーリの王子ですが、来られなくなったそうです」
「ほう」
「何でも三日ほど前にクスクルの国境近い町が襲撃を受けたとかで、離れられなくなったとか。代わりに妹姫がいらっしゃるそうです」
「クスクル?」
「襲撃?」
ラザルの報告にオスカーとティナーシャは表情を険しくした。二人の言葉を受けてラザルは詳しく説明する。
「おそらくクスクルの仕業らしいと……。魔法士が町を焼き払ったらしく、生存者はいなかったようです」
「普通の民草を殺したのか? 何を考えてるんだか。そういう情報を今回公表したということは、タァイーリは他国に助力を要請するつもりかな」
「そうかもしれません。タァイーリだけで対処できるなら、そもそも独立させなかったでしょうから。
他国に借りを作ってもクスクルを何とかしたいということでしょう」
ラザルの報告にオスカーは考え込んだ。
戦争において魔法士は巨大な力を持つが、その使いどころは難しい。
大きな魔法を使えば自国の兵士を巻き込む可能性があるし、詠唱も長い。そもそも大規模魔法は統御が難しく、使いこなせる魔法士は数も少ないのだ。
また距離をとって魔法を打てば、相手の魔法士に防がれる可能性が高い。ある程度近づかなければ、まず出し抜いて魔法を当てることは不可能だろう。
結果、魔法士たちは兵士の後ろから、小中規模の魔法を放つことになり、相手もそれを防ぎあうことになる。
その扱いの難しさに戦闘はほとんど兵士で行い、魔法士は防御と補助に徹する国も多かった。
タァイーリなどは特に、魔法を忌み嫌っている為、魔法士は迫害されている。結果、魔法士たちの攻撃を防ぐ術もないのだろう。
クスクルは何がしたいのか。タァイーリへの復讐か、もっと違うことなのか。
オスカーは眉を顰めかけて、ふと魔女の様子がおかしいことに気づいた。
顔が青い。目には嘆きと怒りの入り混じった光が揺らいでいる。
「ティナーシャ?」
男の言葉に、魔女はハッと我に返った。
「どうかしたのか?」
「ああ、いえ、何でもないです」
魔女は微笑んで、そして少し躊躇った後、オスカーの袖を引いた。
「あの、ちょっといいですか?」
「何だ」
「二人で話したいことがあるんですが……」
彼は頷いた。どうせ色気のない話なんだろう、と思いながら彼女を露台に誘う。
「オスカー、ナークのこと好きですか?」
「は?」
さすがに予想外の質問だった。呆気にとられるが、何とか答える。
「まぁ嫌いじゃないぞ。何でだ」
「じゃあもらってやってくれませんか? 今は私が主人になってますが、それを書き換えたいんです。
貴方ならナークも懐いてますし……」
「何で書き換えたいんだ」
ティナーシャはそれには答えなかった。困ったような顔で彼を見上げる。
化粧や服と合わないその表情は彼女の存在を不安定に見せていた。オスカーは苦い顔で頭をかく。
「分かった。構わんぞ」
「ほんと!? じゃあ書き換えますね」
破顔すると、彼女は音もなく宙に浮いた。オスカーの額に手のひらを当て、口の中で小さく何かを詠唱する。
彼がその体を軽く抱き取ると、彼女はオスカーの腕に座った。
「これで、貴方が主人です。名前を呼べば来る様になります。餌は自分で何とかするので特には要りません」
「分かった」
微笑んだ彼女は美しかった。
月の光が白い肌をうっすらと青く染める。
見つめすぎると魅了される気がした。
空いている右手で彼女の頬を撫でると猫のように目を細める。彼はそのまま頭の後ろに手を差し入れて引き寄せた。
彼女は逆らわない。
オスカーの両肩に手をついて、そうすることが自然であるように口付けを受け入れる。
柔らかい唇が離れた時、オスカーは苦笑した。
「中々、予想外」
その言葉に、魔女は指を伸ばして彼の唇についた紅をぬぐいながら
「緩急つけないと駄目ですよ」
と笑った。
広間にオスカーがティナーシャを伴って現れた時、まるで絵画のような美しい一対に場の注目が集まった。
ざわめきが波のように伝わるのを感じて、ティナーシャは心の中で溜息をつく。隣に立つ男の腕に手を回して歩きながら小声で囁いた。
「こういうところに姿を見せるなんて前代未聞です……」
「ちゃんと素性は黙っておくさ」
「婚約者とか言ったらふっ飛ばしますからね」
「覚えておこう」
二人はケヴィンの前に立つと礼をした。ティナーシャは一歩下がり、オスカーが祝辞を述べる。
ケヴィンは面白そうにそんな二人を見返していたが、ティナーシャを手招きで呼び寄せた。彼女はそれに応じて王の隣りに立つ。
王は彼女だけに聞こえる声で話しかけてきた。
「貴女も付き合いがいい」
「押しが強い契約者がいましてね……」
「折角だから皆に紹介されてはいかがか」
「それは勘弁してください。それより諸国の姫君がてぐすね引いてファルサスの次期国王を待ってますよ」
ティナーシャの言葉に王が広間を見渡すと、あちこちにいる華やかなドレスを着た女性たちが、期待に満ちた目でオスカーを、敵意を滲ませた目でティナーシャを見つめている。
「それは大変」
ケヴィンが小さく笑うとティナーシャは他の人間には分からないように溜息をついた。
「私も他人事でありたいものです」
彼女はその言葉を最後に、ケヴィンにお辞儀をしてオスカーの隣に戻る。オスカーは怪訝そうに彼の魔女に尋ねた。
「何を話してたんだ?」
「人生の苦労についてです」
ティナーシャは半刻ほどオスカーに付き合うと、広間を離れて庭に出た。踊れるドレスでなくてよかったと安堵する。
勿論踊ることは出来るのだが、そんなことをしたらただでさえ針のむしろであるのにいいことになるとはとても思えない。
さっさと逃げ出そう、と決定した彼女に、不意に背後から声がかけられた。
「お一人ですか、美しい方」
思わず砂を吐きそうになるが、何とか堪えて笑顔を作るとティナーシャは振り返った。
そこにいるのは長い赤茶の髪を後ろで縛った秀麗な男だ。確か北のゼラスという国の王子だと紹介された覚えがある。
「少し夜風にあたりたいと思いまして……」
「それはいい。僕もちょうどそう思ったところです」
男はティナーシャの隣まで来るとごく自然にその手をとった。
「よろしければご一緒させてください」
「はぁ……」
逃げ出す機会を逸してしまったことに、魔女は心の中で途方にくれた。
「まさかファルサス王子がこのように美しい魔法士を傍に置いてらっしゃるとは思いませんでした。ひょっとして恋人とか……」
「それはありません」
ティナーシャはきっぱりと即答する。オスカーがいたらまたこめかみを締め上げられたかもしれない。
男はその返答に喜色を浮かべた。とったままの彼女の手を撫でる。
「でしたら僕が立候補しても?」
魔女の全身を寒気が走った。言葉がねっとりと糸を引いている気がする。触られている手が気持ち悪い。
男は彼女の返事がないのをいいことに白い肌の肩を抱く。その感触に、心身とも鳥肌が立ちそうになった。
どうしてくれよう、と魔女が目に不穏なものを宿した時、庭の小道を通って誰かが現れる。
彼は、体を寄せ合い遠目からは恋人同士に見えてもおかしくない二人の姿を見て小さく苦笑した。彼女に向かって声をかける。
「おや、ティナーシャ嬢。そろそろ時間では?」
「あ、はい。参ります」
ティナーシャは慌てて男の腕の中から逃れると「では、殿下、失礼致します」と足早に逃げ出した。
名残惜しそうな王子に一瞥もくれず、声をかけてくれた男と並んで歩き出す。
「助かりました。もう少しでふっ飛ばすところでしたよ」
「ちょっと面白かった。けどまぁ貴女を悪い虫から守るのも警備のうちかな」
アルスは喉を鳴らして笑いながらそう言った。忌々しげに、触られていた肩を払いながらティナーシャは吐き捨てる。
「本当に気持ち悪いです。当たり前のようにべたべた触らないで欲しい。気安い」
「殿下には触られても平然としてるのに」
「……あれ」
魔女は首を傾げた。
彼女に触れる契約者の手を、温かいと思ったことや、心地よいと思ったことはあるが不快だと思ったことはない。せいぜい邪魔なことがあるだけだ。
この違いは何だろう、と考えかけて彼女はやはり考えるのをやめた。答が見つかったとしてもそこにはもう何の意味もないのだ。
その時ふと、ティナーシャの全身を違和感が襲った。皮膚の表面がざわめく。
……見られている。
しかし、その感覚は一瞬で消え去った。辺りには二人の他に誰も居ない。
アルスは気づかなかったようだ。鼻歌を歌いながら歩いている。
魔女はゆっくりと顔を上げ、月を仰ぐ。
そこに、求める誰かの姿を見出すかのように。
母親はそう言った。周りの大人たちも皆そう言う。
同じ人間じゃないの? と聞いても「そう見えても違うのだ、彼らは神に反する穢らわしい生き物だ」と返って来る。
けがらわしいってよく分からない……少女はいつも首を傾げる。
でも皆が喜ばないと知っていたから、隠れてその小屋に行っていた。
山の中にある小さな小屋には素敵な魔法使いが住んでいる。
花を出してくれたり、傷を治してくれたり―――― 迷子になっていた自分にお菓子をくれて町の近くまで連れて行ってくれた。
彼はとっても優しいのよ! と皆に自慢したい。でも少女は口をつぐむ。これは自分と彼だけの秘密なのだ。
少女は今日も山の中を彼の小屋に向かって走る。手にいっぱいの木の実を抱えて。
もうすぐ小屋が見えてくるというところで、向こうから彼が走ってくるのが見えた。
彼は少女の姿を見るなり、駆け寄って彼女を抱きしめる。
「ああ! よかった、ルリ。心配したんだよ。間に合わないかと思った!」
どうしたの? と少女は聞く。
少し様子がおかしい気がする。
とても顔が青いし、慌てているわ、なぜ?
「何でもないよ。さぁ小屋にお入り」
今日はもう戻らないといけないの。お母さんの誕生日なのよ。
「駄目だ! 町に戻ってはいけない!」
どうして?
彼は答えない。
「……ここにしばらく隠れて、それから他の国に行くんだ。出来るだけ遠くに……ファルサスにでも」
どうして? お母さんもお父さんもいるのに。
少女は急に不安になった。
彼の手を振り解いて、来た道を走り出す。
「駄目だルリ! 行ってはいけない!」
彼が追いかけてくる。それでも少女は走る。
走って走って、町が見下ろせる場所まで来た時―――― 彼女が見たものは炎に包まれる自分の町だった。
「出来はどうだ?」
開いている扉を叩きながら、正装した男が入ってくる。魔女はその言葉に顔をあげた。
もう二時間も髪や化粧のために拘束されているのだ。いい加減解放されたいが、シルヴィアや女官たちは実に楽しそうで離してくれない。
「オスカー……」
心底疲れた、という呟きを、しかし彼女の契約者は耳に入っているのかいないのか、ただ彼女を見て絶句している。
「これはまた……迫力があるな」
「何ですかそれ……」
「渾身の作ですよ! 元が綺麗だから化粧のし甲斐があります」
弾むような声でシルヴィアが答える。その言葉に終わったと判断して、ティナーシャは立ち上がった。
長い髪は一部を垂らして結い上げられ、ドレスと同じ黒い花飾りがつけられている。
花の周りを囲むレースはそのまま彼女のむき出しになった白い肩にかかっていた。
高く通った鼻梁と大きな闇色の目を引き立てるように薄い青を基調に化粧が施され、普段清冽な印象を受ける美貌は、女王のように誇りと威圧感を伴った美しさへと引き立てられていた。彼女が憮然とした表情をしているのも相まって、実に近づきがたいものがある。
オスカーは機嫌よく彼女の頬に触れようと手を伸ばした。だがその時、廊下で彼を捜す声がする。
「殿下!」
「何だ」
返事に気づいてラザルが部屋に入ってきた。彼はティナーシャに気づき、やはり絶句する。
魔女に見惚れている従者にオスカーは振り向かぬまま声をかけた。
「用は何だ」
「あ、はい。タァイーリの王子ですが、来られなくなったそうです」
「ほう」
「何でも三日ほど前にクスクルの国境近い町が襲撃を受けたとかで、離れられなくなったとか。代わりに妹姫がいらっしゃるそうです」
「クスクル?」
「襲撃?」
ラザルの報告にオスカーとティナーシャは表情を険しくした。二人の言葉を受けてラザルは詳しく説明する。
「おそらくクスクルの仕業らしいと……。魔法士が町を焼き払ったらしく、生存者はいなかったようです」
「普通の民草を殺したのか? 何を考えてるんだか。そういう情報を今回公表したということは、タァイーリは他国に助力を要請するつもりかな」
「そうかもしれません。タァイーリだけで対処できるなら、そもそも独立させなかったでしょうから。
他国に借りを作ってもクスクルを何とかしたいということでしょう」
ラザルの報告にオスカーは考え込んだ。
戦争において魔法士は巨大な力を持つが、その使いどころは難しい。
大きな魔法を使えば自国の兵士を巻き込む可能性があるし、詠唱も長い。そもそも大規模魔法は統御が難しく、使いこなせる魔法士は数も少ないのだ。
また距離をとって魔法を打てば、相手の魔法士に防がれる可能性が高い。ある程度近づかなければ、まず出し抜いて魔法を当てることは不可能だろう。
結果、魔法士たちは兵士の後ろから、小中規模の魔法を放つことになり、相手もそれを防ぎあうことになる。
その扱いの難しさに戦闘はほとんど兵士で行い、魔法士は防御と補助に徹する国も多かった。
タァイーリなどは特に、魔法を忌み嫌っている為、魔法士は迫害されている。結果、魔法士たちの攻撃を防ぐ術もないのだろう。
クスクルは何がしたいのか。タァイーリへの復讐か、もっと違うことなのか。
オスカーは眉を顰めかけて、ふと魔女の様子がおかしいことに気づいた。
顔が青い。目には嘆きと怒りの入り混じった光が揺らいでいる。
「ティナーシャ?」
男の言葉に、魔女はハッと我に返った。
「どうかしたのか?」
「ああ、いえ、何でもないです」
魔女は微笑んで、そして少し躊躇った後、オスカーの袖を引いた。
「あの、ちょっといいですか?」
「何だ」
「二人で話したいことがあるんですが……」
彼は頷いた。どうせ色気のない話なんだろう、と思いながら彼女を露台に誘う。
「オスカー、ナークのこと好きですか?」
「は?」
さすがに予想外の質問だった。呆気にとられるが、何とか答える。
「まぁ嫌いじゃないぞ。何でだ」
「じゃあもらってやってくれませんか? 今は私が主人になってますが、それを書き換えたいんです。
貴方ならナークも懐いてますし……」
「何で書き換えたいんだ」
ティナーシャはそれには答えなかった。困ったような顔で彼を見上げる。
化粧や服と合わないその表情は彼女の存在を不安定に見せていた。オスカーは苦い顔で頭をかく。
「分かった。構わんぞ」
「ほんと!? じゃあ書き換えますね」
破顔すると、彼女は音もなく宙に浮いた。オスカーの額に手のひらを当て、口の中で小さく何かを詠唱する。
彼がその体を軽く抱き取ると、彼女はオスカーの腕に座った。
「これで、貴方が主人です。名前を呼べば来る様になります。餌は自分で何とかするので特には要りません」
「分かった」
微笑んだ彼女は美しかった。
月の光が白い肌をうっすらと青く染める。
見つめすぎると魅了される気がした。
空いている右手で彼女の頬を撫でると猫のように目を細める。彼はそのまま頭の後ろに手を差し入れて引き寄せた。
彼女は逆らわない。
オスカーの両肩に手をついて、そうすることが自然であるように口付けを受け入れる。
柔らかい唇が離れた時、オスカーは苦笑した。
「中々、予想外」
その言葉に、魔女は指を伸ばして彼の唇についた紅をぬぐいながら
「緩急つけないと駄目ですよ」
と笑った。
広間にオスカーがティナーシャを伴って現れた時、まるで絵画のような美しい一対に場の注目が集まった。
ざわめきが波のように伝わるのを感じて、ティナーシャは心の中で溜息をつく。隣に立つ男の腕に手を回して歩きながら小声で囁いた。
「こういうところに姿を見せるなんて前代未聞です……」
「ちゃんと素性は黙っておくさ」
「婚約者とか言ったらふっ飛ばしますからね」
「覚えておこう」
二人はケヴィンの前に立つと礼をした。ティナーシャは一歩下がり、オスカーが祝辞を述べる。
ケヴィンは面白そうにそんな二人を見返していたが、ティナーシャを手招きで呼び寄せた。彼女はそれに応じて王の隣りに立つ。
王は彼女だけに聞こえる声で話しかけてきた。
「貴女も付き合いがいい」
「押しが強い契約者がいましてね……」
「折角だから皆に紹介されてはいかがか」
「それは勘弁してください。それより諸国の姫君がてぐすね引いてファルサスの次期国王を待ってますよ」
ティナーシャの言葉に王が広間を見渡すと、あちこちにいる華やかなドレスを着た女性たちが、期待に満ちた目でオスカーを、敵意を滲ませた目でティナーシャを見つめている。
「それは大変」
ケヴィンが小さく笑うとティナーシャは他の人間には分からないように溜息をついた。
「私も他人事でありたいものです」
彼女はその言葉を最後に、ケヴィンにお辞儀をしてオスカーの隣に戻る。オスカーは怪訝そうに彼の魔女に尋ねた。
「何を話してたんだ?」
「人生の苦労についてです」
ティナーシャは半刻ほどオスカーに付き合うと、広間を離れて庭に出た。踊れるドレスでなくてよかったと安堵する。
勿論踊ることは出来るのだが、そんなことをしたらただでさえ針のむしろであるのにいいことになるとはとても思えない。
さっさと逃げ出そう、と決定した彼女に、不意に背後から声がかけられた。
「お一人ですか、美しい方」
思わず砂を吐きそうになるが、何とか堪えて笑顔を作るとティナーシャは振り返った。
そこにいるのは長い赤茶の髪を後ろで縛った秀麗な男だ。確か北のゼラスという国の王子だと紹介された覚えがある。
「少し夜風にあたりたいと思いまして……」
「それはいい。僕もちょうどそう思ったところです」
男はティナーシャの隣まで来るとごく自然にその手をとった。
「よろしければご一緒させてください」
「はぁ……」
逃げ出す機会を逸してしまったことに、魔女は心の中で途方にくれた。
「まさかファルサス王子がこのように美しい魔法士を傍に置いてらっしゃるとは思いませんでした。ひょっとして恋人とか……」
「それはありません」
ティナーシャはきっぱりと即答する。オスカーがいたらまたこめかみを締め上げられたかもしれない。
男はその返答に喜色を浮かべた。とったままの彼女の手を撫でる。
「でしたら僕が立候補しても?」
魔女の全身を寒気が走った。言葉がねっとりと糸を引いている気がする。触られている手が気持ち悪い。
男は彼女の返事がないのをいいことに白い肌の肩を抱く。その感触に、心身とも鳥肌が立ちそうになった。
どうしてくれよう、と魔女が目に不穏なものを宿した時、庭の小道を通って誰かが現れる。
彼は、体を寄せ合い遠目からは恋人同士に見えてもおかしくない二人の姿を見て小さく苦笑した。彼女に向かって声をかける。
「おや、ティナーシャ嬢。そろそろ時間では?」
「あ、はい。参ります」
ティナーシャは慌てて男の腕の中から逃れると「では、殿下、失礼致します」と足早に逃げ出した。
名残惜しそうな王子に一瞥もくれず、声をかけてくれた男と並んで歩き出す。
「助かりました。もう少しでふっ飛ばすところでしたよ」
「ちょっと面白かった。けどまぁ貴女を悪い虫から守るのも警備のうちかな」
アルスは喉を鳴らして笑いながらそう言った。忌々しげに、触られていた肩を払いながらティナーシャは吐き捨てる。
「本当に気持ち悪いです。当たり前のようにべたべた触らないで欲しい。気安い」
「殿下には触られても平然としてるのに」
「……あれ」
魔女は首を傾げた。
彼女に触れる契約者の手を、温かいと思ったことや、心地よいと思ったことはあるが不快だと思ったことはない。せいぜい邪魔なことがあるだけだ。
この違いは何だろう、と考えかけて彼女はやはり考えるのをやめた。答が見つかったとしてもそこにはもう何の意味もないのだ。
その時ふと、ティナーシャの全身を違和感が襲った。皮膚の表面がざわめく。
……見られている。
しかし、その感覚は一瞬で消え去った。辺りには二人の他に誰も居ない。
アルスは気づかなかったようだ。鼻歌を歌いながら歩いている。
魔女はゆっくりと顔を上げ、月を仰ぐ。
そこに、求める誰かの姿を見出すかのように。