貴方のことを思う 039
自室に戻ったオスカーは、内心うんざりしながら椅子に座っていた。
さて、どうしようかと思う。
彼の目の前には、淡い紅色のドレスを着た気位の高そうな姫が座っていて、じっと彼を見つめている。
兄の代わりに出席してきたタァイーリの王女、チェチーリアであった。
オスカーはクスクルの件について話を聞きたいと思い、彼女に話しかけたのだが、チェチーリアは込み入った話なのでここでは出来ないと自室に押しかけてきた挙句、先ほどから全然関係ない話ばかりしている。どうやら様子を見るだに彼女は何も政治の話が分からないらしい。或いは彼女に課せられた役目は、クスクルに対抗するために有力な国の実力者を味方につけることなのだろうか。ただオスカーに向かって媚態を示してくる。
いい加減追い出すか……と彼が腰を上げかけた時、外から窓が叩かれた。オスカーは自然とその名を呼ぶ。
「ティナーシャ、どうした」
窓を開けて入ってきた彼女は、チェチーリアに気づいて驚いた顔をした。
どうせまた、お邪魔しましたとかややこしいことを言うんだろう、と予想していたオスカーはしかし、魔女がチェチーリアに
「申し訳ありませんが大事な用がございますので、お引取り頂けますか」
と毅然と告げたのを見て、呆気にとられる。だが当然ながら、チェチーリアは怒りに顔を赤くしただけだった。
「そんなところから突然来て厚かましい。殿下、この方はどなたなのです!」
「私の魔……法士です」
危うく魔女と言うところだったのを彼は修正する。
チェチーリアは男の答に眉を跳ね上げた。ティナーシャのすぐ前に歩み寄ると、深い闇色の目を睨みつける。
「魔法士ですって? 魔法士風情が無礼な……。穢らわしい。出ておいき!」
傲慢にそう言い放つ王女に頭に来たオスカーが何か言うより先に、ティナーシャが口を開いた。
「魔法士風情? 口を慎め、痴れ者が」
「なんですって!?」
「去ね。二度言われなければ分からないのか?」
空気までもを支配する静かな威厳。チェチーリアはその迫力に押されて後ずさった。オスカーは唖然として魔女を見つめる。
魔女である彼女が恐ろしい威圧感を放つのを見たことはある。しかしこのように人を芯から縛り、従わせる目をしたことは今までない。
それは彼も持っているもの、すなわち、人の上に立つ人間の―――― 王者の持つ目だった。
チェチーリアはすがるようにオスカーを見たが、助けを得られないと分かると逃げるように部屋から出て行く。
後には魔女と、その契約者が残された。
オスカーには、正装をした彼女が纏う雰囲気を変えたことで、まるで知らない女のように見えていた。
彼女はゆっくりと振り返るとオスカーの前に立つ。大きな瞳には自嘲が滲んでいた。
「ティナーシャ?」
彼女は微笑みながら口に人差し指を当て彼に黙るように示す。そのままふわりと浮かび上がると右手を軽く振った。細い人差し指から血が零れ始める。
彼女はオスカーの首に両腕を回して、左耳の後ろに血のついた指で何かを書き始めた。その作業に集中しながら、男の耳に囁く。
「オスカー……私は本当は四百年前に死んでいるはずなんです……。
今の私は魔女ですらない。死すべき子供の残滓に過ぎない。死者に魅入られてはいけないんです」
彼女は書き終ると、両手でオスカーの顔を挟んだ。日の落ちたばかりの、澄んだ空色の瞳を正面から見つめる。
「貴方は貴方の為すべきことをしてください。貴方の肩にこの国の民の未来がかかっていることをどうか忘れないで」
真摯な目。
その闇は深淵である。
オスカーは理由のない不安に捉われた。
「ティナーシャ? どうかしたのか?」
彼女は目を閉じると頭を振る。
そしてもう一度、彼女の契約者を見つめると美しい紅色の唇を開いた。
「ルクレツィアの術を解いた時の……私の言葉を覚えていますか?」
オスカーは目を瞠る。
彼女は答えを待たなかった。
白い、悲しげな貌を寄せてそっと男の唇に口付ける。
そして彼女は音もなく床に降り立つと、男に背を向けた。
闇色の目が見つめる先の空間が歪む。
次の瞬間、そこには見知らぬ男が転移してきていた。
長く白い髪は、乳白というより溶け入りそうな雪の白さだった。肌も同じく白い。
細い体に秀麗な容貌のその男は、ティナーシャを見つめると微笑む。
「アイティ、迎えに来たよ。随分大きく……美しくなったね」
その言葉にオスカーは思わず声を上げそうになった。そして自分の声が封じられていることに気づく。
注意してみれば体も動かない。さっきの口付けで魔女が術をかけたのだ、ということに彼はようやく思い当たった。
彼に背を向けているティナーシャの表情は分からない。
しかし彼女は不意に床を蹴ると、男に向かって駆け出した。その首に腕を回して抱きつく。
「ラナク! ラナク! 本当に生きていたのね」
喜びに溢れた声。ラナクと呼ばれた男は彼女の髪を愛しそうに撫でた。
「君が僕を探していることは知っていた。でもずっと動けなくてね……すまない。もう淋しい思いはさせないよ」
ティナーシャは浮かび上がると男の額に口付ける。その横顔を見て、オスカーは少なからず衝撃を受けた。
彼女は本当に幸せそうな、喜びに泣き出しそうな顔をしていたのだ。仮面としてのそれではないことは、彼にはよく分かった。
ラナクは、オスカーの存在にまったく気づいていないかのように、ティナーシャの顔に触れる。彼女は目を閉じてその手に自分の手を重ねた。
「ずっと探していたの。絶望するかと思った。でも諦め切れなかった。―――― 夢じゃないのね」
「ちゃんといるよ。ここに。君の傍に。君の為に祖国も作った。クスクルというんだ。小さい国だけど、すぐに大きくなる。
きっと気に入るよ。君はそこの王妃になるんだ」
オスカーは愕然とした。
突如できた魔法士の国、それを作ったのは目の前の男なのだ。ティナーシャを迎えに来た使者の捨て台詞が蘇る。
優しげで、しかしどこか不穏な危うさを持つこの男が彼の国の王だというのだろうか。
ティナーシャは陶然とした表情で答えた。
「私の国なら、我儘いっぱい言うよ?」
「いいよ」
ラナクは彼女の体を左手で抱えるように抱く。そしてその時初めて気づいたかのように、オスカーを見据えた。
「彼は?」
「契約者だった人よ」
「アカーシアの剣士か。危ないな」
ラナクがオスカーに向かって右手をかざす。それを見て彼女の顔が一瞬歪んだ。オスカーの呪縛が解ける。
素早くアカーシアを抜こうとした彼との間にティナーシャが飛び込んだ。彼女はラナクの方を向いて微笑む。
「放っておきましょう。剣に力があっても所詮は剣。使い手に力がなければどうにもならないわ」
「ティナーシャ!」
悪い夢を見ている気がする。
彼の魔女がひどく遠く感じられた。
今彼女は何処にいるのだろう。
ティナーシャはゆっくりと振り返る。
その闇色の目に敵意を湛えて。
「貴方との契約は今夜で終わりです。呪いは解いた。もう私に用はないでしょう?」
「まだ時間はあるはずだ」
「もうない」
酷薄な笑みがそこに浮かぶ。
オスカーはアカーシアを抜いた。
「その男とは行かせない」
「……ラナクを傷つけるつもりなら、私がお相手します」
ティナーシャは両手を広げる。そこに一振りの剣が現れた。彼女は長剣を無造作に取る。
空気が緊張する。
オスカーは、ともすれば混乱に乱れそうな精神を制御し、統一した。ティナーシャが剣を構えるのが見える。
この距離なら殺せる。
オスカーはそう確信した。
そしてだからこそ、踏み込むことができない。
戦いに集中する意思と、それを拒む意志の二つが彼の精神を二分していく。
沈黙が永遠になるかと思われたその時、彼女の体を後ろからラナクが抱きしめた。
「もういいよ、行こう」
ティナーシャは苦笑すると頷く。魔力が二人を包んだ。
「ティナーシャ!」
オスカーが叫んだ時、彼の魔女の姿は部屋の中から忽然と消えていた。
自室に戻ったオスカーは、内心うんざりしながら椅子に座っていた。
さて、どうしようかと思う。
彼の目の前には、淡い紅色のドレスを着た気位の高そうな姫が座っていて、じっと彼を見つめている。
兄の代わりに出席してきたタァイーリの王女、チェチーリアであった。
オスカーはクスクルの件について話を聞きたいと思い、彼女に話しかけたのだが、チェチーリアは込み入った話なのでここでは出来ないと自室に押しかけてきた挙句、先ほどから全然関係ない話ばかりしている。どうやら様子を見るだに彼女は何も政治の話が分からないらしい。或いは彼女に課せられた役目は、クスクルに対抗するために有力な国の実力者を味方につけることなのだろうか。ただオスカーに向かって媚態を示してくる。
いい加減追い出すか……と彼が腰を上げかけた時、外から窓が叩かれた。オスカーは自然とその名を呼ぶ。
「ティナーシャ、どうした」
窓を開けて入ってきた彼女は、チェチーリアに気づいて驚いた顔をした。
どうせまた、お邪魔しましたとかややこしいことを言うんだろう、と予想していたオスカーはしかし、魔女がチェチーリアに
「申し訳ありませんが大事な用がございますので、お引取り頂けますか」
と毅然と告げたのを見て、呆気にとられる。だが当然ながら、チェチーリアは怒りに顔を赤くしただけだった。
「そんなところから突然来て厚かましい。殿下、この方はどなたなのです!」
「私の魔……法士です」
危うく魔女と言うところだったのを彼は修正する。
チェチーリアは男の答に眉を跳ね上げた。ティナーシャのすぐ前に歩み寄ると、深い闇色の目を睨みつける。
「魔法士ですって? 魔法士風情が無礼な……。穢らわしい。出ておいき!」
傲慢にそう言い放つ王女に頭に来たオスカーが何か言うより先に、ティナーシャが口を開いた。
「魔法士風情? 口を慎め、痴れ者が」
「なんですって!?」
「去ね。二度言われなければ分からないのか?」
空気までもを支配する静かな威厳。チェチーリアはその迫力に押されて後ずさった。オスカーは唖然として魔女を見つめる。
魔女である彼女が恐ろしい威圧感を放つのを見たことはある。しかしこのように人を芯から縛り、従わせる目をしたことは今までない。
それは彼も持っているもの、すなわち、人の上に立つ人間の―――― 王者の持つ目だった。
チェチーリアはすがるようにオスカーを見たが、助けを得られないと分かると逃げるように部屋から出て行く。
後には魔女と、その契約者が残された。
オスカーには、正装をした彼女が纏う雰囲気を変えたことで、まるで知らない女のように見えていた。
彼女はゆっくりと振り返るとオスカーの前に立つ。大きな瞳には自嘲が滲んでいた。
「ティナーシャ?」
彼女は微笑みながら口に人差し指を当て彼に黙るように示す。そのままふわりと浮かび上がると右手を軽く振った。細い人差し指から血が零れ始める。
彼女はオスカーの首に両腕を回して、左耳の後ろに血のついた指で何かを書き始めた。その作業に集中しながら、男の耳に囁く。
「オスカー……私は本当は四百年前に死んでいるはずなんです……。
今の私は魔女ですらない。死すべき子供の残滓に過ぎない。死者に魅入られてはいけないんです」
彼女は書き終ると、両手でオスカーの顔を挟んだ。日の落ちたばかりの、澄んだ空色の瞳を正面から見つめる。
「貴方は貴方の為すべきことをしてください。貴方の肩にこの国の民の未来がかかっていることをどうか忘れないで」
真摯な目。
その闇は深淵である。
オスカーは理由のない不安に捉われた。
「ティナーシャ? どうかしたのか?」
彼女は目を閉じると頭を振る。
そしてもう一度、彼女の契約者を見つめると美しい紅色の唇を開いた。
「ルクレツィアの術を解いた時の……私の言葉を覚えていますか?」
オスカーは目を瞠る。
彼女は答えを待たなかった。
白い、悲しげな貌を寄せてそっと男の唇に口付ける。
そして彼女は音もなく床に降り立つと、男に背を向けた。
闇色の目が見つめる先の空間が歪む。
次の瞬間、そこには見知らぬ男が転移してきていた。
長く白い髪は、乳白というより溶け入りそうな雪の白さだった。肌も同じく白い。
細い体に秀麗な容貌のその男は、ティナーシャを見つめると微笑む。
「アイティ、迎えに来たよ。随分大きく……美しくなったね」
その言葉にオスカーは思わず声を上げそうになった。そして自分の声が封じられていることに気づく。
注意してみれば体も動かない。さっきの口付けで魔女が術をかけたのだ、ということに彼はようやく思い当たった。
彼に背を向けているティナーシャの表情は分からない。
しかし彼女は不意に床を蹴ると、男に向かって駆け出した。その首に腕を回して抱きつく。
「ラナク! ラナク! 本当に生きていたのね」
喜びに溢れた声。ラナクと呼ばれた男は彼女の髪を愛しそうに撫でた。
「君が僕を探していることは知っていた。でもずっと動けなくてね……すまない。もう淋しい思いはさせないよ」
ティナーシャは浮かび上がると男の額に口付ける。その横顔を見て、オスカーは少なからず衝撃を受けた。
彼女は本当に幸せそうな、喜びに泣き出しそうな顔をしていたのだ。仮面としてのそれではないことは、彼にはよく分かった。
ラナクは、オスカーの存在にまったく気づいていないかのように、ティナーシャの顔に触れる。彼女は目を閉じてその手に自分の手を重ねた。
「ずっと探していたの。絶望するかと思った。でも諦め切れなかった。―――― 夢じゃないのね」
「ちゃんといるよ。ここに。君の傍に。君の為に祖国も作った。クスクルというんだ。小さい国だけど、すぐに大きくなる。
きっと気に入るよ。君はそこの王妃になるんだ」
オスカーは愕然とした。
突如できた魔法士の国、それを作ったのは目の前の男なのだ。ティナーシャを迎えに来た使者の捨て台詞が蘇る。
優しげで、しかしどこか不穏な危うさを持つこの男が彼の国の王だというのだろうか。
ティナーシャは陶然とした表情で答えた。
「私の国なら、我儘いっぱい言うよ?」
「いいよ」
ラナクは彼女の体を左手で抱えるように抱く。そしてその時初めて気づいたかのように、オスカーを見据えた。
「彼は?」
「契約者だった人よ」
「アカーシアの剣士か。危ないな」
ラナクがオスカーに向かって右手をかざす。それを見て彼女の顔が一瞬歪んだ。オスカーの呪縛が解ける。
素早くアカーシアを抜こうとした彼との間にティナーシャが飛び込んだ。彼女はラナクの方を向いて微笑む。
「放っておきましょう。剣に力があっても所詮は剣。使い手に力がなければどうにもならないわ」
「ティナーシャ!」
悪い夢を見ている気がする。
彼の魔女がひどく遠く感じられた。
今彼女は何処にいるのだろう。
ティナーシャはゆっくりと振り返る。
その闇色の目に敵意を湛えて。
「貴方との契約は今夜で終わりです。呪いは解いた。もう私に用はないでしょう?」
「まだ時間はあるはずだ」
「もうない」
酷薄な笑みがそこに浮かぶ。
オスカーはアカーシアを抜いた。
「その男とは行かせない」
「……ラナクを傷つけるつもりなら、私がお相手します」
ティナーシャは両手を広げる。そこに一振りの剣が現れた。彼女は長剣を無造作に取る。
空気が緊張する。
オスカーは、ともすれば混乱に乱れそうな精神を制御し、統一した。ティナーシャが剣を構えるのが見える。
この距離なら殺せる。
オスカーはそう確信した。
そしてだからこそ、踏み込むことができない。
戦いに集中する意思と、それを拒む意志の二つが彼の精神を二分していく。
沈黙が永遠になるかと思われたその時、彼女の体を後ろからラナクが抱きしめた。
「もういいよ、行こう」
ティナーシャは苦笑すると頷く。魔力が二人を包んだ。
「ティナーシャ!」
オスカーが叫んだ時、彼の魔女の姿は部屋の中から忽然と消えていた。