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※ネーベル王国密偵、カラス視点です。
或る密偵の憂鬱。
今日のねぐらである、古びた宿の一室にて。
ベッドに寝転がったオレは、階下にある酒場から響く調子の外れた歌に眉を顰めた。
「煩いなぁ……」
「今日は仕方ないですよ」
同室者であるヒグマは『仕方ない』なんて言いつつも、酷く機嫌が良い。
ベッド脇にある粗末なテーブルの上に、酒瓶とカップを並べる彼の表情は、見たこともないくらい柔らかだ。
理由は聞くまでもない。下で浴びる程に酒を飲んでいる奴らと同じ。
ネーベル王国が誇る英雄と女神の婚約は、国民を熱狂させた。
ネーベル王国近衛騎士団長、レオンハルト・フォン・オルセイン。
黒獅子将軍という二つ名を持ち、国内のみならず周辺諸国にも名を轟かせる勇将。
由緒正しき伯爵家の嫡男であり有能、且つ人望もある。おまけに容姿端麗とくれば、女性が放っておく訳がない。それなのに未だ独身だった彼の婚約が、とうとう決定した。
お相手はネーベル王国第一王女、ローゼマリー・フォン・ヴェルファルト。
光り輝くような美貌と豊富な知識を持ちながらも、決して驕る事のない、心優しい姫君。
自国の民だけでなく、隣国ヴィントでも圧倒的な人気を誇るかの人は、いつからか『女神』と呼ばれるようになった。
国の宝である二人の婚約に、国中が沸き立った。
王都の端に位置し、普段は寂れているこの辺りも例外ではなく、一日中お祭り騒ぎだ。宿に入って階段を上がる短い距離でさえ、何度酔っ払いに絡まれた事か。祝い酒だ、奢りだから飲めと騒ぐ奴らを引き剝がすのに、いらん体力を使った。
「カラスも一杯、付き合いませんか?」
カップの一つを向けられ、暫し考えてから身を起こす。
受け取ると、ヒグマは栓を抜き、葡萄酒をなみなみと注ぐ。暗い赤色の液体には濁りがなく、ランタンの光を受けて、幻想的に揺れた。
乾杯するでもなく呷ると、強い渋みに噎せかけた。どっしりと濃い味を堪能する暇もなく、通り過ぎた酒精が喉を焼く。一拍置いて、燻したタルの特徴的な香りが鼻に抜けた。
酒場の奴らが水の如く消費している安酒とは違って、不快な後味はない。おそらく、それなりの値段はするだろうが、随分と癖が強い。
じとりと恨みがましい目を向けるが、いつになく浮かれた様子のヒグマは気付く様子もなかった。
聞こえてくる賑やかな笑い声を肴に、ちびちびと葡萄酒を飲む彼の口元は緩んでいる。まるで子供の結婚を喜ぶ親父のような顔だ。
からかってやろうかとも思ったが、止めた。
たぶん照れもなく肯定されるだろうし、実際に近い感情なのだろう。旧友と恩人の婚約を心から祝っている男から視線を外し、カップを傾けた。
舐めるように飲んだ葡萄酒の苦味が、心の奥底にあった苦い感情も引き摺りだす。
ここ暫く、姫さんには会えていない。
影から姫さんの様子を見守る事はあっても、逆はない。宝石みたいな蒼い目にオレが映ったのは、あの夜が最後。
魔王に操られ、絶望していた姫さんを、オレが助けられなかった日だ。
思い出すだけで、じり、と内臓が焼け付くような感覚に襲われる。
身を焦がす焦燥感と、己に対する失望と怒りがまざまざと蘇った。
あの日、姫さんは怯えていたのに。気丈な姫さんが震えて助けを求めていたのに、目の前にいたオレは、何もしてやれなかった。
尋常ではない眠気と倦怠感など、理由にならない。魔力がどうのとかも関係ない。レオンハルト・フォン・オルセインは、それらを物ともせずに姫さんを助け出してみせたのだから。
そんな男が姫さんの婚約者。
お似合い過ぎて、何も言えない。
捕らわれの姫君と救い出した騎士の結婚なんて、出来過ぎた御伽噺のようだと、おかしくもないのに笑った。
「カラス」
呼ばれて顔を上げると、ヒグマが葡萄酒の瓶を向けている。
いつの間にか空になっていた手元のカップを、少し考えてから差し出す。
葡萄酒はあまり好きじゃないが、今日はもう少し飲んでもいい気がした。
カップの縁と瓶の口がぶつかるのと同時に、前触れなく扉が開く。
「邪魔するよー」
気配を消す事もせず、足音荒く入ってきた男に、オレとヒグマは顔を顰める。顔を見合わせたオレ達は、『嫌な奴が来た』と言葉なく語った。
「邪魔だから帰れ」
「傷付くなぁ。仕事で疲れた同僚に労いの言葉はないの?」
傷付いたフリすらせず、飄々と笑う男に苛立ちが増した。
※ネーベル王国密偵、カラス視点です。
或る密偵の憂鬱。
今日のねぐらである、古びた宿の一室にて。
ベッドに寝転がったオレは、階下にある酒場から響く調子の外れた歌に眉を顰めた。
「煩いなぁ……」
「今日は仕方ないですよ」
同室者であるヒグマは『仕方ない』なんて言いつつも、酷く機嫌が良い。
ベッド脇にある粗末なテーブルの上に、酒瓶とカップを並べる彼の表情は、見たこともないくらい柔らかだ。
理由は聞くまでもない。下で浴びる程に酒を飲んでいる奴らと同じ。
ネーベル王国が誇る英雄と女神の婚約は、国民を熱狂させた。
ネーベル王国近衛騎士団長、レオンハルト・フォン・オルセイン。
黒獅子将軍という二つ名を持ち、国内のみならず周辺諸国にも名を轟かせる勇将。
由緒正しき伯爵家の嫡男であり有能、且つ人望もある。おまけに容姿端麗とくれば、女性が放っておく訳がない。それなのに未だ独身だった彼の婚約が、とうとう決定した。
お相手はネーベル王国第一王女、ローゼマリー・フォン・ヴェルファルト。
光り輝くような美貌と豊富な知識を持ちながらも、決して驕る事のない、心優しい姫君。
自国の民だけでなく、隣国ヴィントでも圧倒的な人気を誇るかの人は、いつからか『女神』と呼ばれるようになった。
国の宝である二人の婚約に、国中が沸き立った。
王都の端に位置し、普段は寂れているこの辺りも例外ではなく、一日中お祭り騒ぎだ。宿に入って階段を上がる短い距離でさえ、何度酔っ払いに絡まれた事か。祝い酒だ、奢りだから飲めと騒ぐ奴らを引き剝がすのに、いらん体力を使った。
「カラスも一杯、付き合いませんか?」
カップの一つを向けられ、暫し考えてから身を起こす。
受け取ると、ヒグマは栓を抜き、葡萄酒をなみなみと注ぐ。暗い赤色の液体には濁りがなく、ランタンの光を受けて、幻想的に揺れた。
乾杯するでもなく呷ると、強い渋みに噎せかけた。どっしりと濃い味を堪能する暇もなく、通り過ぎた酒精が喉を焼く。一拍置いて、燻したタルの特徴的な香りが鼻に抜けた。
酒場の奴らが水の如く消費している安酒とは違って、不快な後味はない。おそらく、それなりの値段はするだろうが、随分と癖が強い。
じとりと恨みがましい目を向けるが、いつになく浮かれた様子のヒグマは気付く様子もなかった。
聞こえてくる賑やかな笑い声を肴に、ちびちびと葡萄酒を飲む彼の口元は緩んでいる。まるで子供の結婚を喜ぶ親父のような顔だ。
からかってやろうかとも思ったが、止めた。
たぶん照れもなく肯定されるだろうし、実際に近い感情なのだろう。旧友と恩人の婚約を心から祝っている男から視線を外し、カップを傾けた。
舐めるように飲んだ葡萄酒の苦味が、心の奥底にあった苦い感情も引き摺りだす。
ここ暫く、姫さんには会えていない。
影から姫さんの様子を見守る事はあっても、逆はない。宝石みたいな蒼い目にオレが映ったのは、あの夜が最後。
魔王に操られ、絶望していた姫さんを、オレが助けられなかった日だ。
思い出すだけで、じり、と内臓が焼け付くような感覚に襲われる。
身を焦がす焦燥感と、己に対する失望と怒りがまざまざと蘇った。
あの日、姫さんは怯えていたのに。気丈な姫さんが震えて助けを求めていたのに、目の前にいたオレは、何もしてやれなかった。
尋常ではない眠気と倦怠感など、理由にならない。魔力がどうのとかも関係ない。レオンハルト・フォン・オルセインは、それらを物ともせずに姫さんを助け出してみせたのだから。
そんな男が姫さんの婚約者。
お似合い過ぎて、何も言えない。
捕らわれの姫君と救い出した騎士の結婚なんて、出来過ぎた御伽噺のようだと、おかしくもないのに笑った。
「カラス」
呼ばれて顔を上げると、ヒグマが葡萄酒の瓶を向けている。
いつの間にか空になっていた手元のカップを、少し考えてから差し出す。
葡萄酒はあまり好きじゃないが、今日はもう少し飲んでもいい気がした。
カップの縁と瓶の口がぶつかるのと同時に、前触れなく扉が開く。
「邪魔するよー」
気配を消す事もせず、足音荒く入ってきた男に、オレとヒグマは顔を顰める。顔を見合わせたオレ達は、『嫌な奴が来た』と言葉なく語った。
「邪魔だから帰れ」
「傷付くなぁ。仕事で疲れた同僚に労いの言葉はないの?」
傷付いたフリすらせず、飄々と笑う男に苛立ちが増した。