江戸时代の『百怪図巻』『画図百鬼夜行』などで蛇体の女の妖怪として多くの妖怪画が残されていることから、当时はよく知られた妖怪だったと考えられているが、蛇体としての濡女の话は、当时の古典资料では确认されていない。しかし昭和初期の民俗学者・藤沢卫彦の著书『妖怪画谈全集 日本篇 上』によれば、参考とされた一次出典の名は挙げられていないものの、江戸时代の文久2年(1819年)の话として以下のように记述されている。
越后国(现・新潟県)と会津(现・福岛県)の境のとある川岸に、若者たちが木材を得るために何艘かの船で出かけたところ、1艘が彼方へ流されてしまった。流れた船の者たちが、髪を洗っている1人の女を见つけ、不思议に思っていたが、やがて悲鸣を上げて必死に船を漕ぎ出した。
ようやく仲间の船と合流し、仲间が「大蛇でも见たか?」と寻ねると、流されたほうの者たちは「もっと恐ろしいものだ。濡女だ!」と答えた。仲间は话を信じず、その者たちの制止を闻かずに女のいたという场所へ向かった。流された者たちは恐怖のあまり引き返したが、濡女のほうへ向かった仲间たちの下からは恐ろしい叫び声が何度も闻こえた。濡女の尻尾は3町(约327メートル)先まで届くので、见つかったら最后、决して逃げることはできないのだといわれ、その仲间たちもついに戻って来ることはなかったという[2]。
この话においては濡女の姿は直接描写されていないものの、尻尾が3町先まで届くということから、蛇体の姿と考えられている[3]。同様の话は山田野理夫の著书『东北怪谈の旅』や、文学博士・笹间良彦の著书『図说・日本未确认生物事典』にも见えるが[4][5]、共に一次出典となる资料の名は挙げられていない[3]。